あれから150年 北越戊辰戦争越後諸藩それぞれの事情とは 

あれから150年 北越戊辰戦争越後諸藩それぞれの事情とは 


江戸から明治へ。日本の歴史が大きく変わってから今年で150年。この節目に、当時を振り返り、今一度見つめ直そうという動きが高まっています。明治元年(1868)の年、薩摩・長州藩を中心とする新政府軍と会津・桑名藩などの旧幕府軍が戦ったのが「戊辰戦争」です。京都から江戸城を目指す新政府軍の通り道となった越後の各藩も、否応なくこの戦いに巻き込まれ、翻弄されることになります。


この時、越後の各藩はいったいどちらについたのでしょう。隣の会津藩に倣って旧幕府軍? いえいえそうではありませんでした。「幕末の新潟には、11の藩や会津や桑名など、諸藩の領地が入り組んだ形で点在していました。それぞれの藩は、戊辰戦争の戦況をうかがいながら、どちらの側につくか決断していったのです」(新潟県立歴史博物館 主任研究員 田邊幹さん)

高田藩も戦争回避の立場をとっていましたが、新政府軍の厳しい追求にやむなく参戦。以降、新政府軍の先鋒として全ての戦いに参加。その数は72回にも上ったということです。上越市街を一望できる金谷山には、この戦争で亡くなった藩士たちの墓が祀られています。

司馬遼太郎の作品に「峠」という小説があります。主人公は、戊辰戦争で長岡藩の軍事総監督を勤め、「最後のサムライ」と言われた家老の河井継之助(つぎのすけ)です。小千谷市に建つ「峠」の文学碑には、武士の義のために力を尽くした長岡藩に対する司馬遼太郎の言葉が刻まれています。

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新潟文化物語