城の山(じょうのやま)古墳のニュース。なにがスゴイのか解説
11月12日、報道各社で大きなニュースとなった城の山(じょうのやま)古墳(胎内市)ですが、一体どのへんがニュースのポイントなのでしょうか。GATAポストなりに解説してみます。
前方後円墳という墳形は最上級、そして県内最大の62メートル
今まで円墳だと思われていた城の山古墳、調べてみたら「前方後円墳の可能性が高い」ことが分かってきました。しかも前方後円墳としては日本海側最北。そして県内最大の62メートル。「前方後円墳」という墳形は「最上級の墳形」とみられていて、これは大和政権が重要視していた豪族に築造を認めたとされています。このことから城の山古墳の時代には大和政権の強い影響力が現在の胎内市にまで及んでいたことを示唆する発見なんです。
ちなみにこれに次ぐ規模の古墳は円墳の「古津八幡山古墳」で60メートルとのこと。
古墳時代ってどんな時代?
城の山古墳は4世紀前半につくられたものです。4世紀前半といえば古墳時代前期前半、大和政権が倭国の統一政権として確立していき、王権が強化・拡大していくまっただなかの時代となります。
ちなみに新潟県内の前方後円墳、最も古いものは3世紀後半(古墳時代前期初頭)の妙高観音平1号墳と4号墳とのことです。
このあと越後はどうなった?
今年の9月には新潟市東区牡丹山諏訪神社古墳が大きな話題となりました。発掘調査によって5世紀に作られた古墳(直径30メートルの円墳)だと判明したのですね。こちらからは「須恵器」の器台(つぼを載せる台)の破片が発掘されています。「須恵器」は大和政権が朝鮮半島から職人を呼んで技術を取り入れ、堺市などで作らせた器。地方の有力者に配ったとされます。こちらからも大和政権との深い関係が見えてきます。
さらに時代は下って飛鳥時代の637年には渟足柵(新潟市東区にあったとされる)、648年には磐舟柵(村上市岩船のあたりにあったとされる)が作られています。これらは国境の防衛ラインであるとともに、交易の拠点であったともみられています。
712年は越後国の国域確定とされています。
越後国域確定1300年イベントも
新潟県教育庁文化行政課では平成26年度越後国域確定1300年記念事業として「縄文時代の新潟県」事業を開催中。リレー講演会などイベントを各地で開催していますよ!歴史ファンは要チェックで。
平成26年度越後国域確定1300年記念事業「縄文時代の新潟県」
(GATAポスト古墳担当 伊藤潤治)