新潟にはお酒にまつわる「誇れる父」が2人存在した

新潟にはお酒にまつわる「誇れる父」が2人存在した


1868年、元号が明治に変わり、265年続いた鎖国政策の江戸時代が終わりました。そして、開国によってなだれ込むように入ってきた西洋文明。脅威と憧れが混在する時代、長岡と上越で生まれ育った2人の若者は「自分に何ができるのか」を模索します。運命なのか、2人が出会った人物たちによって、2人のその後の人生が変わり、「ビールの父」「日本のワインぶどうの父」と呼ばれる業績に導かれていきます。

1865年、まだ鎖国中の江戸時代。17歳になった中川青年は英国に密航し、その後ドイツに渡ります。当時のドイツ留学生総代だった青木周蔵と出会い、「ビールの実学を勉強するとよい」と諭され、ビール醸造技術を修業しました。

1888年、20歳の川上青年は、祖父や父と交友があった勝海舟を訪ね、温めていたワイン造りの構想を伝えます。自宅の庭を「岩の原葡萄園」と名付け、ワインに適したぶどうを求め、交配の研究に没頭します。

「海外の品種ではダメだ」と気付くまで、30年の歳月を要しましたが、現在、国内で栽培されているぶどうの半数以上が、川上善兵衛が輸入もしくは交配したものがルーツと言われています。食用の「シャインマスカット」もその一部です。

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新潟文化物語